第三章 崇拝としてのNFT

 NFTとは、Non-Fungible Token(代替不可能な記録)の略である。
 難しい言葉だが、その意味は単純だ。
 「このデジタルデータは、世界に一つしか存在しない」と証明するための印章——
 それがNFTの正体である。

 ブロックチェーンの技術によって、画像・音楽・文書・動画など、
 どれほど複製しやすいデータであっても、
 「唯一の所有者」を記録することが可能になった。
 いわばデジタルの砂粒に、所有の影を刻みつける試みである。
 誰が初めにそれを思いついたかは問題ではない。
 重要なのは、その発想が、人間の“唯一性”への渇望を映しているということである。

 NFTが注目を浴びたのは、アート市場においてであった。
 ピクセルの集合が何億円で取引され、
 GIF画像やツイートまでもが「作品」として競売にかけられた。
 しかしそれは芸術の勝利ではなく、信仰の誕生である。
 人々は「持つ」という感覚を、ついに物質の外にまで拡張したのだ。
 それは、触れられぬ神像を拝む行為に限りなく似ている。

 だが、崇拝が深まるほど、矛盾もまた露わになる。
 NFTに記録されるのは作品そのものではなく、その“所在”を示すリンクである。
 つまり「これがオリジナルである」と記した札を所有しているに過ぎない。
 実体は依然としてクラウドの片隅に眠り、
 それが消えれば、所有の証も虚空を指すのみである。
 それでも人々は、その札を崇め、札の札さえ売買する。
 信仰とは、虚無の上に秩序を築く才能のことなのだ。

 近年では、NFTはアートを離れ、ゲームや不動産、会員証、音楽の著作権にまで広がりつつある。
 それは所有の概念を再定義する実験であると同時に、
 新たな投機の温床でもある。
 芸術と金銭、創造と市場、その境界はますます曖昧になっている。
 だが、これは歴史的にはむしろ自然な流れだ。
 古代の聖遺物もまた、霊感と値札とを同時に帯びていたのである。

 NFTの隆盛は、技術の問題ではなく存在の問題である。
 人は“自分が確かにここにいる”という印を、
 いつの時代も外部に刻もうとしてきた。
 洞窟の壁に残した手形が、いまやブロックチェーンに置き換わっただけだ。
 技術が進歩しても、人間は依然として“痕跡”を欲している。
 NFTとは、デジタル時代における存在証明の宗教なのである。

 ——もし神がブロックチェーンを見たなら、
 彼は微笑するだろう。
 なぜなら、我々がいま祈っているのは、
 もはや神ではなく、消えない記録そのものだからだ。